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​永井潔の生涯と仕事

​北野 輝

 2008年9月、画家永井潔が92歳の高齢で亡くなった。いまあらためてその死が惜しまれるだけではない。彼の仕事と業績は、その死とともに忘れ去られてよいものではない。彼の仕事は、本来の画業にとどまらず多方面にわたっている。民主的な美術運動の中心的働き手として、また芸術論や反映論、言語論などについての専門の研究者に劣らない理論家・著述家として、さらには教育者として、など。そして晩年の著作と時事エッセイは、現代と世相への鋭い「警世の書」として私たちを打つ。画家として、実践家として、理論家として、教育者として、また何よりも人間として、彼は時流におもねることなく真摯に時代に立ち向かい、休むことなく歩み続けたのである。

1.青年期と戦争
 1916年(大正5年)教育者の家に生まれ、文化的に恵まれた環境で育った永井だが、その青年期は日中戦争開戦前夜から太平洋戦争終結にいたる冬の時代であった。旧制中学から第一高等学校(一高)への進学(1933年)は、いわゆる「飛び級」によるものだったから、彼の秀才ぶりがうかがえる。しかし入学した一高では酒をおぼえ授業をさぼって「落第横町」(東大前の一角にいまもその名前だけは残っているという)に入りびたり、落第さらには退学することになる(1935年)。だが、その間のさまざまな東大生や人々との出会いと交遊は、教室では得られない体験と学習の機会でもあったようだ。アカデミックな学舎内においてではなく生きた現実と人間から学び、また先人や先学たちに学びながらも権威に屈せずみずからの頭で考え抜くというのが、彼の生涯を貫く基本姿勢となる。彼はこの時期に、みずからエリートコースから外れ、画家硲伊之助に出会いその指導を受けて絵画の道に進むことになる。
 1936年(昭和11年)、徴兵検査で甲種合格となった永井は、以後、1940年の治安維持法違反容疑での検挙勾留をはさむ都合3度、延べ4年間にわたり徴兵入営を強いられ(1938年7月には張鼓峯事件に動員されて胸部盲管銃創の瀕死の重傷を負い、約9ヶ月入院)、1945年の終戦によりやっと最終的に軍務から解放されることになった。このように彼の20代は、戦争(徴兵)と治安維持法(検挙勾留)によってずたずたに切り刻まれたかに見える。だが「落第横町」に続くこの戦時期こそ、絵画制作においても芸術論の研究や社会科学の習得においても彼がその基礎的素養を積み、基本的人格を形成する重要な時期となったといえよう。彼の青年期における貴重な体験や交友関係は、青春期の自伝『私の大学』(2001年)に生き生きと描かれている。

2.戦後の出発と活動
 終戦(1945年8月)後の永井の動き出しは素早く活発だった。戦時下ですでに新たな出発の準備がかなりできていたからであろう。10月に復員帰宅した彼は、早くも11月頃友人たちと民主主義美術研究会をつくり、戦後の美術運動のあり方を模索しており、翌46年4月には、志を同じくする美術家たちと日本美術の民主的形成と発展をはかる日本美術会の創立に加わり、以後一貫してその運動における実践と創作、理論の各面で中心的役割を果たすことになる。流派や表現方法、思想信条の違いをこえて幅広く美術家たちの結集をはかる日本美術会は、日本の美術家たちが戦争とファシズムに対抗する幅広い結集をはかることができず、その多くが戦争に協力していったことへの反省と教訓から生まれたものである。日本美術会は、日本美術の自由で民主的な発展とその新しい価値の創造を目指す。それは価値観の多様性を認め合う「多元主義的連帯」(後年の永井の言葉)を体現する自主・独立の組織として、自由出品・非審査の日本アンデパンダン展の開催やさまざまな活動をいまも続けている。永井はその創立当初から、委員や事務局長、代表などを歴任し、日本美術会の付属研究所創設に当り初代の所長を務めるなど、一貫して会と歩をともにした。そして晩年においては、民主的文化運動の精神的主柱としてかけがえのない存在となった。
 ところでまた終戦後、日本美術の出発に当って、日本美術会にとってばかりでなく日本の美術界全体にとって大きな課題となったのは、戦時下における美術家の戦争協力問題を反省しどう清算するかであった。日本の美術界はこの課題を解決することなくうやむやのままやり過ごして今日にいたっているが、当時永井によって打ち出された戦争協力への批判と反省、克復の基本方針は、基本的に正しいものとしていまも色あせていない。またその後折に触れてなされた彼の戦争画や戦争責任問題についての発言は、藤田嗣治らの戦争協力が不問に付され、戦争画(戦争協力画)が「芸術」の名において無批判に賞賛されるようになった現在、あらためて輝きと重みを増している。

3.画家としての仕事
 ここで、画家としての永井潔の創作活動を簡単に振り返ってみよう。戦時下の絵画制作は兵役と兵役の合間を縫ってなされたが、1939年除隊帰京した彼は本郷美術研究所に通い、この年の9月、「自画像」で一水会入選を果たしている。戦時下の作品の多くは失われている中で、残された1940年の「自画像」は、的確な構成力と描写力によって当時の彼がなかなかダンディで自負心にあふれた青年であったことをうかがわせる。
 創作者としての永井は、理論家としての彼と同様、一貫してリアリズムの追求者であった。そしてその眼差しの中心には、同時代に生きる人々や親密な父母や家族がすえられており、人物画に優品が多い。1947年の日本アンデパンダン展に出品された「蔵原惟人氏像」は、読売新聞で年度ベストスリーに選ばれている。人物画といえば、1950年の「母」はとりわけ忘れがたい。それはデッサン(木炭素描)ながら中学校の教科書にも載っており、1940年代末から50年代にかけて戦後リアリズム美術の優作があいついで生み出されていった時期の所産として、佐藤忠良の彫刻「群馬の人」(1952年)などと肩を並べるものであろう。同じく母を描いた作品では、「母」(1953年、一水会で受賞)や「手紙の媼」(1985年)なども落とせない。それらは、他にかけがえのない存在としての〈実存〉への肉薄を創作の課題として来た成果に属するものであろう。
 一方、「コマ絵描き」、「画室」、「注湯」(シリーズ)、「床屋」などの優作は、永井の関心と共感が、注意を集中して仕事にいそしむ人物のいるアトリエや職場などの情景に向けられて来たことを物語っている。また、失われてしまった「鍛造」や「合唱」は、彼の自信作であったばかりでなく、本格的に構想・構成されたタブロー画の位置づけを持つものである。いま私たちはそれらを見ることはできないが、幸い同系列の作品として残されている「注湯」や「燃える心臓」などを見ることができる。ゴーリキーの小説に取材した「燃える心臓」は、彼には少ない構想画への果敢な挑戦の一例である。その他ここで取り落せないものとして、的確な場面設定と卓抜な人物表現による挿絵や絵本の仕事を付け加えておきたい。それらはマイナーな分野や画家の余技として見過ごされてはならない質と価値を持っているからである。
 以上は永井の画業の一端に触れたにすぎない。彼の画業の本格的な理解と評価はまだ十分おこなわれてはいず、私たちに残されたこれからの課題となっている。それはひとり永井潔個人の仕事を問うだけではなく、戦後日本美術と民主的美術運動におけるリアリズム美術の有り様と成果を問うことに重なるだろう。

4.理論家としての仕事
 はじめにも書いたように永井潔の活動はたんなる画家の域をこえて多面的である。彼は民主的文化運動の実践的働き手であったばかりでなく、著書十数冊をこえる理論家・著述家であり、また教育者でもあった。最後にここで理論家・著述家としての永井の業績について手短に紹介しよう。彼の文筆活動はそれ自体が多面的であり、芸術の起源と成立を見据えた芸術論、美学的な美の理論、哲学的論争をはらむ反映論、言語論、文化運動論、文化論、各種のエッセイ、数編の小説、その他に及んでいる。その中でもかつて活発な論議を生んだ『芸術論ノート』(1970年)と専門研究者に先駆けて唯物弁証法的反映論の深化・発展に寄与した『反映と創造』(1981年)は、とりわけ重要な理論的労作といえるだろう。晩年の永井は、反映論の立場から言語論、とりわけソシュールの構造主義的言語論への批判に力を注ぎ、それは『鱓の呟き』(2004年)と『鱓の呟き その二』(2008年)の二著にまとめられている(後者は時事的エッセイ等を含む)。彼が言語問題と言語学に特別の関心と関与を示したのは、「言語と言語学を大衆のために取り戻したい」がためであり、「話し合いか暴力かの二者択一が迫られている今日、言語活動の活性化こそ急務だ」(同上書)と考えたからである。
 老齢にしてなお現代の危機的状況に立ち向かおうとする彼の姿勢と意欲は衰えなかった。永井潔は、晩年になおやり残した仕事として、価値論の完遂と構造主義批判、技術論の展開、言語学批判を挙げていただけに、高齢であったとはいえその死は惜しんでも惜しみきれないものがある。「市井の思索者・研究者」であった彼の著作は、「非専門の専門」(加藤周一)に属するばかりでなく、他面では「専門をこえる非専門」の域にあるものとして、より多くの人々によって読まれ研究される価値がある。

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