​永井潔氏を偲んで

​北野 輝

 2008年9月8日、画家・永井潔氏が亡くなられた。92歳の高齢であったとはいえ、民主主義的な文化運動の精神的支柱であったばかりでなく、ご当人自身生前なすべきいくつかの課題(価値論の完遂など)を抱えておられただけに、惜しんでも余りある逝去であった。
 1916年(大正5年)教育者の家に生まれ、文化的に恵まれた環境で育った氏だが、その青年期は日中戦争開始前夜から太平洋戦争終結に至る冬の時代であった。一高落第と退学というエリートコースからの逸脱、師・硲伊之助の指導を受けての絵画への転進、治安維持法違反による逮捕拘留、それをはさむ都合3度延べ4年間の徴兵入営による戦争体験(1938年には胸部盲管銃創の瀕死の重傷を負った)、その間の多数の知己との出会いと交遊、「左傾化」等々。かけがえのない20代の時間を戦争でずたずたに切り刻まれたかに見えるこの時期こそ、氏自身の筆により『私の大学』(2001年)に活写されている、氏の基本的な人格の形成期となったようだ。
 終戦後の永井氏の始動は早かった。1946年、年長の美術家たちと共に日本美術の民主的形成と発展をはかる日本美術会の創立に加わり、以後今日まで一貫してその運動における実践と創作・理論の各面で指導的役割を果たすことになったのである。流派や表現方法、思想信条の違いをこえて美術家たちの結集をはかる日本美術会のあり方は、広範な統一戦線をつくり得なかった戦前の教訓に学んだ永井氏らによる必然的な選択であった。また日本美術会の草創期に取り組まれた大きな問題の一つに、戦時下における美術家の戦争協力問題があった。そのとき永井氏を中心に打ち出された戦争協力への批判と反省、克服の基本方針と、その後折に触れてなされた氏の戦争協力問題についての発言は、日本がふたたび戦争への傾斜をつよめ、藤田嗣治らの戦争協力が不問に付され、戦争画が「芸術」の名において無批判に肯定されるようになった現在、あらたな輝きと重みを増している。
 ところで、何よりも画家である永井氏だが、その活動はまことに多彩・多面的であった。氏は関係する民主的文化運動の実践的な働き手であったばかりでなく、著書十数冊をこえる著述家・理論家であり、数篇の小説の書き手であり、さらには教育者でもあった。画家としての永井氏は、その理論においてと同様、リアリズムの追求者であった。私は本欄で〈九十歳記念・永井潔個展〉を取り上げ、不十分ながら氏の芸術に触れているので(前衛、No.813、07年1月号)、ここでは理論家としての氏の業績について手短に記すだけにしよう。ここでも氏の文筆活動は多面的であり、リアリズム論と絵画論を含む芸術論、美の理論、哲学的な原理論としての反映論、言語論、運動論、その他に及んでいる。この中でもかつて活発な論議を呼んだ『芸術論ノート』(1970年)や専門研究者たちに先駆けて弁証法的反映論の深化・発展に寄与した『反映と創造』(1981年)などは、とりわけ重要な理論的業績といえよう。また、言語論を中心とする近著の『鱓の呟き』(04年)と『鱓の呟き その二』(08年)は、現代への時事批評と重なる「警世の書」ともいえるだろう。
 真摯に時代に対峙して休むことなく歩み続けられた「市井の思索者」、画家・永井潔氏に、心から敬意と哀悼の意を表したい。

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