​大切な画友

吉井 忠

 戦後、日本美術会の研究所が新宿の歌舞伎町辺の画材店の所に出来るという話が持ち上ったことがある。これは一水会の硲伊之助さんの骨折りによるものだったと思う。当時は東西の美術交流が復活したばかりで、中にはいかがわしい作品も混っていた。マチス等と交流のあった硲さんはそういうものを見分ける眼力を持っていたようだ。永井潔さんは硲さんと親しく、後に虎の門の現在の所に日本美術会の研究所が出来る時も硲さんはいろいろ応援してくれたようだ。あの頃は安井曾太郎さんも何かの形でこういう動きには好意を寄せてくれていたようだ。
 硲さんが九段下の辺にいた頃私も一度訪ねたことがある。彼は後に油絵を止めて石川県に移り、晩年は彼流の九谷焼に凝っていたようだが何か思いつめることがあったのだろう。
 今はそこに硲美術館がある。
 私の家から目白駅に向う途中に徳川屋敷がある。昔は日蓮宗の寺があった所だそうだが幕末に取り潰されて徳川に接収されたのだという。戦後、日本美術会はその中の会場で発足した。
 永井潔、永見譲治の諸兄はその中心にいた。当時私は郷里に疎開していたが、焼け跡が残っている東京に戻り早速その会に参加した。間もなく日本アンデパンダンの第一回展が上野で開かれる。当時は戦前に解散したり、バラバラになっていたままの美術団体が多く東京に帰って来た美術家も少なかった。
 独立美術の児島善三郎さんが作品を抱えてアンデパンダンの会場に来る姿や生花の勅使河原蒼風が室一パイに大作品を展開する等のことがあった。鶴岡政男の「重い手」等もこの会に出品されたものだ。
 その後朝鮮戦争が起った時に中谷泰さん、西常男さん達が平和美術家会議を作ってこうした民主主義を元にした自由出品制が現在も続き、そこに集まった若い作家も成長し会の内容も充実して来ている。
 永井さんは私を中国や、キューバ、メキシコ等につれて行ってくれた。永井さんは私達の前では目立った動きをする人ではなかったが、彼地の人との間にあってうまく事を運んでくれる人のようだった。私達はおかげで充分に勉強が出来たし、それが今でも役に立っている。聞くところによると彼のお母さんは光悦とのつながりがあるという。いつか彼と京都に行った時、「落柿舎」で私は何となく渋味があってスケッチ等したが彼はあまりあの辺の空気を好まなかったように見受けた。
 数年前まで彼の住んでいた家は詩人滝口修造の家を設計した新建築家の手に成るものだが、彼も初めは新建築は住むには不自由なものだとこぼしていた。彼から貰った紺染めの半纏は今も私は愛用している。私は彼の大きな女性像を持っている。その澄み通った表情がいい。
 彼は私の大切な画友の一人だ。


 

≪永井潔画集≫1995年刊より
 

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