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​53年前の出会いから

川尻 泰司

 街には「紀元は二千六百年……」の歌声が響いていた。私はその年の1月から四谷警察の留置所の拘留4房に座っていた。数ヵ月たった或日、和服に黒いマントの若い男が看守につれられて留置所に入って来て、斜向いの保護室に入れられた。身なり、看守との応対から特高関係だなと直感した。古参で監房長をしていた私は、機会を見て主任看守に、事件は違うし、彼は長くなるだろうから日のあたる私の房へ移してくれと頼んで、同房になった。
 1日4回便所に行くわずかの時間だけが互に小声で話すことができる。
 交す言葉にお互いが驚いた。彼と私とは同じ府立8中卒で、私はバスケット部で、彼はサッカー部で2年下級生。いわれれば面影に覚えがあった。夏の末だったろうか、二人とも一応取調べがすみ、2階の特高係の部屋の前の講堂の片隅で一つテーブルに向い合い、それぞれの手記を書き、時にはお互の母親を交えて持ってきてくれた差入れの弁当を食べたこともあった。彼は9月か10月頃四谷署を出され、私は残った。
 これが永井潔と私との出会いである。昭和15年、太平洋戦争の始まる前年のことだ。
 2、3年前、紀伊国屋画廊で「車」の童画展かなにかの会場で、何人かが立話をしていた時、話が年齢のことになり私より一つ若いと言ったら、彼は「川尻君狡いよ。二つ若いんだよ。この年になると一つは大きいんだぜ」と真顔で私に抗議した。
 「君」で呼び合う付合いも、年齢が不確かになったり、気になるほど年月が過ぎた。
 その間戦時中は気をくばりながらの連絡。ゆっくり話し合えるようになったのは敗戦後。
 彼が兵隊から帰って間もなくだったろう。東松原のお宅には何回かお邪魔し、彼のモデルとして通ったこともある。日本美術会のことは大したお手伝いもできなかったが、やがてアンデパンダン展も開かれ、彼のおかげで美術家のよい友達ができた。
 敗戦の年の暮の河上肇の記念集会や、50年代の宮本百合子記念集会の演壇の装飾をプークが頼まれた時、中央に飾るたたみ3畳程の大肖像画を描いてもらったりしたが、それぞれの仕事に追われ、一緒に仕事をしたことはあまりない。ただプーク・アカデミーの美術の講師、劇団の公演パンフレットのイラストなど、彼にはずい分世話をかけた。
 「50年問題」当時共に過ごした厳しい記憶は今日も残るが、下戸の私は彼と気楽に楽しい時を過ごしたことはほとんどない。それでいて時どき無性に話したくなる時がある。
 8年前劇団の依頼で私の肖像画を描いてくれた時、何日かアトリエに通ったが、絵筆を置いたわずかな時間ながら、彼とゆっくり話ができた日々は楽しい思い出だ。
 お母さんもまだお元気だ。飲みすぎないでよい仕事を続けてほしい。
 今回の画集の刊行を心からお祝いしたい。
(1993年12月12日)

 

≪永井潔画集≫1995年刊より
 

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