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​宵口浅慮長饒舌
(よいのくちのあさはかなるながのおしゃべり)

滝平 二郎

 永井さんのこと?
 そうねえ、日本美術会創立以来だから、つき合いだけはずいぶん長いことになるねえ。
 あの人は、なにしろ五年制の旧制中学の四年修了で一高へはいっちゃったんだから、かなりの頭脳明晰型だね。そのくせちっとも秀才ぶらないところがいい。むしろ適度な不良性すら装ってわれわれに調子を合わせてくれたりもする。ユーモラスな気配りもたいしたもんだ。初対面の人から名前を訊かれたときなんか「ナガイ キヨシのキヨシは不潔のケツ」なんて言ったりする。清潔のケツとはいわないところが何気ないサービスなんだね。
 永井さんの方向音痴?——ああ、それは有名な話だね。そのうち伝説化するんじゃないの。駅を出たとたん右と左を間違えちゃって、あちらへフラフラ、こちらへフラフラ、なかなか目的地へ辿りつかないという特性。いや特性というより唯一の欠陥だな。それは御本人も認めていらっしゃる。
 ところで秀才には意外にも酒好きの人が多い、ということを知っているかね。永井さんもご多聞にもれずだ。あたしもずいぶん押しかけ相手をしたもんだ。ちっとも迷惑がらないもんだからつい、いい気になってね。
 酒盛りは灯ともし頃とは限らないよ。夜更けにとつぜん美空ひばりの唄のような電話がかかってきたりする。
 「ボクはいま独りぼっちだ。独り酒場で呑む酒の、何と苦(にが)くて悲しいことか。ボクはいま寂しいんだ、タキさん来てくれえ」
 あたしはキキとして西池袋の「珊瑚」へと急いだもんだ。もちろん電話のぬしは永井さんさ。けしかけたのは珊瑚のママさんに決まっている。なぜって後日あたしもママさんにそそのかされて「オレは寂しんだ」って店から永井さんに電話したことがあるもの。あの人も律儀だね、夜半だというのに駆けつけてくれたよ。そして言うことがいいや「これでおあいこだね」って。うれしかったねェ。
 永井さんはアタマも良いが肝臓の出来もいいのかなァ。酒豪、酒仙。いっちゃァわるいがあたかもウワバミの如しだね。
 古い話だが、いつか箕田源二郎さん家(ち)で研究会があってね、絵描き仲間が七、八人集ってね。後半は大酒宴となってかしましく議論が続いたんだが、さすがに日頃は底なしの呑んべえ自慢も一人二人とぶっ倒れて、やがて全員ダウン。それでも早く倒れた奴から順ぐりに起き上っては議論をしていたようだ。
 あたしは明け方にようやく眼を覚ましておどろいたね。何と永井さんだけが前夜のままの格好で泰然としてまだ呑んでるんじゃァないの! あたしァ思わず叫んだね「キャハ、一体どんなふうに出来上ってるんだ、あんたの身体は!」ってね。
 それほどの酒豪、かつ秀才でありながら、これだけは絶対ダメ!というニガテなものもあるんだから面白いね。たとえばドジョウ。「あのヌルヌルかァーーあんなもの、にんげんの食いものじァないよ、キミィ」とくる。蜂の子は美味いが柳川鍋なんてもってのほか!っていうんだ。当方生れも育ちも霞ヶ浦の沼ッペリという者にとっては聞き捨てならず、しばし大論争と相成ったね。まるで天下国家を論じてるみたいで、いやァ可笑しかったなァ。
 話はちがうが、永井さんのハダカの胸を見たことある?胸毛の話じゃないよ。左の胸の鉄砲キズの痕。サイズは鉛筆の頭ぐらいかな。盲貫銃創だったからあとで外科的に弾丸(たま)を掘り出したらしい。だから背中のキズは大きいよ。
 一九三八年(昭和十三年)の張鼓峰事件。お相手は旧ソヴィエト軍さ。この話は長くなるから今日はやめよう。ただ当時の日常を詠んだ母上の歌の中に、直接鉄砲キズに触れたものが二首ほどある。

 

   服ぬがしめまづ見まく思ふも夫もわれも
    わが子の胸の弾きずの痕

 

   ゆかたの胸かきあはせつつかくし居り
    をりをり見ゆる弾きずの痕

 

 百歳を記念したこの本のあとがきでも母上は当時のことを〈……除隊即日臨時召集という形でソ満国境の戦地に送られ、左胸部盲貫銃創を受けることになりました。倒れた瞬間一生のことが頭に浮かんだという重傷で、担架で運ぶ衛生兵がこの男は今晩死ぬねというのがきこえたそうです……〉と書いておられる。(『百年うたのくずかご』永井志津著、光陽出版社、1500円)
 このとき永井さん二十二歳というから、もう五十五年も経つんだね。今年喜寿のお祝いだもんね。数年前には結腸ガンで死ぬかと思ったそうだけど、どうしてどうして、いつのまにかムクムクピンピンと元気なもんだ。懲りもせずに相変わらずの酒仙ぶりさ。
 つい先日、ある知人のお通夜の帰りに永井さん何を思ったか、あたしの肩をポンと叩いてこういうんだ。
 「親しい人がどんどん鬼籍に入る。寂しいねえ……。ところでタキさん、ボクが逝ってもわざわざ来てくれなくてもいいからねッ」
 あたしは小さい目を精一ぱい丸くして「とーんでもない、よろこびいさんで飛んで行くよォ」と言い返して大笑いのあと、しばらく顔見合わせて沈黙しちゃったね、二人とも。あたしァ永井さんより五つ歳下なんだが、ここまで来りゃァ同じようなもんさ、どっちが先やらーー。
 永井さんを酒のサカナにしようったって、そう簡単には食べきれないよォ。今晩はさいわい永井さんも居ないから柳川鍋でいくとしようかーー軽くね。


 

≪永井潔画集≫1995年刊より
 

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